BGM: モルダウ 私たちアンサンブル・フローラは、2011年3月24日(木)、プラハのスメタナホールで開催されたジャパン・フェスティバルに出演してきました。この海外演奏は私たちにとって、ニューヨーク、ベニス、ウィーンに次ぐ4回目。今回も『プラハ・スメタナホール演奏とドイツ珠玉の街々を訪ねる音楽の旅』を企画した所、幸いにも40名もの方々の参加を得られました。 ただ、毎回のことながら私たちの海外演奏には楽器の運搬が大きな問題となります。現地調達できない大重量のエレクトーン3台を空輸しなければなりません。そこで今回も、ウィーン公演の時と同様に、ヤマハエレクトーン企画部生貝隆先生にお願いした所、軽量で分解可能なエレクトーンD-DECK3台を提供してもらうことができ、ここからプラハ公演実現への第一歩が始まりました。 せっかくD-DECKを3台も運ぶのだから、この楽器の素晴らしさをプラハの方々に紹介したいと思い、様々な形態でD-DECK機能のフル活用が実現できるよう、幅広く知人たちにジャパン・フェスティバルへの参加を呼び掛けました。その結果、ビオリラ、生け花、ジャズ、ゴスペルの4グループとアンサンブル・フローラによるチームヤマハが結成されました。舞台での楽器のセッティング、PAなどの裏方の仕事はすべて、生貝先生が担当してくださる事になり、これによりチームヤマハは、安心してプラハ公演の準備を進めることができました。 この企画は、2年ほど前から旅行社と共に、アンサンブル・フローラが準備を進めてきました。ところが、出発を目の前にして3月11日に、東日本一帯に大地震と大津波が起こったのです。それに続く余震と原発事故により、私たちの周辺状況は一変しました。参加者の中には被災した方もおられ、飛行機も相次ぐ欠航、成田空港への足も確保出来るか否かの深刻な事態に陥ってしまいました。それは、ツァー自体が実行できるかどうかの瀬戸際でした。出発直前まで、私達はどうするべきか、かなり悩みました。しかし、すでに公演チケットは完売、そして日本を応援したい気持ちでジャパン・フェスティバルを待っていてくれるプラハの人たちの熱意も伝わってきました。さらにチケット売上は、当初プラハの知的障害者福祉団体に寄付する予定だったのですが、その一部がチェコ赤十字社より日本赤十字社へ、義援金として振り分けられることになったのです。それを聞いた時から、私たちは、今自分に出来る精一杯の事として、この企画をどうしても実現させようと、心に決めたのでした。 3月23日(水) 出発当日 成田空港9時集合。巴サービス社よりD-DECK3台とステージパス300の計14箱を受け取り、搭乗手続き後、ビオリラ3箱が加わった楽器類計17箱の通関手続きに立ち会いました。事前に各箱のサイズ、重量を細かく申告していたのにも関わらず、改めて厳重にひと箱ずつのチェックが始まり、緊張の面持ちでその様子を見守りました。床の上にズラリと並べられた大きな段ボールたちの姿は、実に壮観でした。暫くして無事に通関手続きが完了し、係員によって運ばれて行きました。 本来ならばウィーン直行のオーストリア航空52便でしたが、原発事故の影響で北京経由に変更になりました。理由は何と航空会社の考えで成田滞在時間を最小限に留めたいため、給油、食事積み込み、乗員交代を北京で行うからだそうで、そのため、成田出発時間も45分早まり、11時45分になりました。搭乗口では乗客一人一人が、毛髪、体、鞄と靴の底の放射能検査があり、これは正直ショックでした。 北京で約1時間費やし、ウィーン着18時30分。オーストリアに入国手続き後、楽器17箱をウィーンコンツェルトハウスのトラック運送業者に引き渡し、5時間かけてプラハまで運んでもらうことになっていました。しかし私たちが乗るはずだった17時15分発のプラハ行きは、北京経由になったために、接続便に間に合わず、結局荷物を積んだトラックを追いかけるように、私たちもバスでプラハへと向かうことになりました。ホテルに到着したのは、すでに深夜。なんと東京から26時間の長旅になっていました。 朝食後、バスでプラハ市内観光へ出発。フラチャーニの丘で下車し、ツァーの方々はプラハ城、カレル橋、旧市街広場などの世界遺産を徒歩で観光しました。しかし、生貝先生、ジャズの入江先生、ビオリラ、アンサンブル・フローラはD-DECK組み立てのため、生け花グループはロビーに飾る花を生けるため、聖ヴィート大聖堂の見学のみで、スメタナホール目指してフラチャーニの丘、カレル橋、旧市街を一目散に駆け抜けました。この距離は、後で地図で見ると、走り続けるのは不可能な距離なのですが、きっと全員無我夢中だったのでしょう。 スメタナホールは、毎年恒例の『プラハの春 国際音楽祭』の会場の一つで、チェコが生んだ大作曲家、スメタナの名にちなんだホールです。かつては王宮のあった場所で、1912年に建てられました。アールヌーボー様式の華麗な建築は、ステンドグラス、モザイク画、彫刻などの装飾が施され、息をのむ美しさです。ホールでは午前中より片山鉱二監督のもと、舞台の準備が進められていました。私たちはまず生貝先生を中心に、日本で練習した通り、D-DECKの組み立てに取りかかりました。やっと3台の細かな配線を終え、ちゃんと音が出てくれるかどうか、これはいつも緊張の瞬間です。スイッチON、データー読み込みOK、3台とも長旅の疲れも見せず、私たちを安心させてくれました。 そしていよいよ、午後7時からジャパン・フェスティバルは始まりました。千人以上収容できる大ホールは満席。初めに、東日本大震災犠牲者への黙祷があり、その間遠く離れた日本への思いが募り、会場の皆様への感謝がこみ上げてきました。コンサートは二部構成になっており、チームヤマハの5グループはD-DECKコラボレーションで、第一部に出演。第二部は3組の合唱団の演奏が続くという構成です。 ♪チームヤマハのプログラムは以下の通りでした。♪ @ ビオリラ 3台のビオリラとD-DECKのアンサンブル ゴッドファーザーのテーマ、日本の歌メドレー、美しく青きドナウ A 生け花 アンサンブル・フローラがBGMを演奏 さくらさくら、花 B 生貝ゴスペル 生貝先生ご指導のツァーメンバーグループと現地ゴスぺルグループのジョイント 伴奏D-DECK This little light of mine、O happy day C 入江ジャズ&ゴスペル D-DECK、ピアノ演奏とゴスペル スペイン、ゴスペル・メドレー D アンサンブル・フローラ D-DECK3台のアンサンブル リベルタンゴ、管弦楽のためのラプソディ、 ラデツキー行進曲、わが祖国より「モルダウ」 私たちフローラはお客様の温かい拍手に包まれ、どの曲も気持ちよく演奏できました。特に「モルダウ」をプラハ・スメタナホールで披露できたことは、生涯の思い出になることでしょう。 今回はD-Deckと色々なジャンルとのコラボレーションを試みたので、それぞれの演奏ごとに楽器の組み合わせと配置が変わるため、MCの合間に手際よくセッティングを済ませなければなりません。裏方を引き受けて下さった生貝先生は、演奏、指揮、などプレーヤーとしてのステージをこなしながらの大活躍で、そのおかげで、D-DECKコラボレーションは、滞りなく舞台で繰り広げることができました。 出演者全員が舞台に立ち「ふるさと」を歌いました。大震災で大変な状況の真っただ中に置かれている「ふるさと」日本が思い出され、涙なしではいられませんでした。 皆様の協力により、ホールのロビーに用意したドネーションボックスと、チケット売上の一部を合わせて、約10万円の義援金が集まりました。寄付金を納めて下さった方々には、言葉に尽くせぬ感謝の気持ちでいっぱいになりました。 最後にジャパン・フェスティバルの成功を祝し、スメタナホール地下のレストランにて、打ち上げ夕食会を催しました。出発前に余りにも色々なことを乗り越えての公演だったので、みんな自分のステージをやり遂げた満足感と達成感に満たされた夕食会となり、各グループの友好を深めた思い出の晩餐会となりました。
プラハ、ワイマール、ライプチヒ、マイセン、ドレスデン、ポツダム、ベルリンを観光。それぞれ自由に、オペラやバレエ鑑賞も楽しみました。
( ドレスデン) 3月29日(火) 帰国これからが、又大変な長い一日の始まりでした。ドレスデンのホテルからプラハ空港へ向けて、バスで午前3時45分に出発。6時15分空港着、ロビーで日の出を見て、プラハ出発8時10分〜ウィーン着9時10分。ウィーンで出国手続き後、コンツェルトハウスで預かってもらっていた楽器17箱を受け取り、通関手続きに立ち会いました。そして成田に向かうOS51便13時30分発まで時間がたっぷりあるので、ゆったり買い物やお茶を楽しみながら過ごし、予定通り搭乗口に行くと、そこからがいっこうに機上できず、出発が少し遅れるとの案内。そしてしばらくすると今度は、突如の欠航アナウンス。帰国便も北京経由でしたが、今度は北京空港着陸の許可が得られないのだと言うのです。その理由は不明のまま。まったく中国の勝手な言い分で、振り回されてしまう事実を知り、茫然としましたが、これ又じっとしているわけにもいかず、搭乗口で待っていた乗客全員は一斉に立ち上がり、大移動が始まりました。これも想定外の出来事!まだまだ試練の旅は続くのか!不安は的中、航空会社のサービスカウンターへと人の流れはどんどん続き、代わりの航空券を求める大行列が出来ていて、その列はなかなか進みません。もしかして帰国難民?との不安がよぎり、心の底では空港一泊の覚悟もしました。その上、私達は楽器17箱と一緒に行動しなければなりません。どうなるのだろうと心配する内、数時間後、添乗員斉藤さんの頑張りで、ようやくANAの航空券を手にすることができました。人数が多いためフランクフルト経由とミュンヘン経由に分かれてしまいましたが、双方翌30日の15時に成田着なのだから、これで良しとしなければ…。 これで8時間もウィーン空港にいたことになりましたが、全員が航空チケットを手にした時は、これで日本へ帰れるという思いが募り、あと一息!と自分たちを励ましながら機上の人となりました。 そして、飛行機の変更で、貨物の積み換えも正しく行われたかどうか心配しましたが、幸いにも、楽器は無事に成田に到着しました。日本で楽器を引き取りに来た方々には、時間の変更が伝わっておらず、大変ご迷惑をかけてしまいましたが、何よりも楽器17箱が全部無事についたことに私達はホッとしたのでした。 D-Deck ウィーン空港 発 成田空港 着 復路は往路以上の28時間15分もかかりましたが、疲れたというよりも、全員が元気で無事に帰国できたという安堵感の方が強く、又今まで以上に達成感のある、思い出深いツアーとなりました。 このような厳しい状況の中、またしても私たちの夢が叶ったことは、本当に有り難いことだと思いました。それは生貝先生、片山監督、ヤマハエレクトーン企画部、巴サービス社、そして旅行主催者の東京アソーシエイツ、その他大勢の方々のご支援があっての結果なのだと思います。そして何よりもこのような災害のあった時期に、私達のツアーに前向きに御参加下さいました皆様がいらっしゃらなければ、この企画は実現できませんでした。フローラ一同より、心より深い感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。 最後になりますが、ジャパン・フェスティバル出演へのきっかけは、私たちの友人、亡き海東要一氏が作ってくれたものでした。こうした沢山の方々の熱意と縁(えにし)に支えられて、今回のプログラムは無事成功出来たのだと思います。この幸せを、私たちは存分にかみしめています。 2011年5月 アンサンブル・フローラ |
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